ニュースクラップタウン

私事で恐縮です。

健やかな強迫

最近、なんとなく目にする星占いの結果がことごとく悪い。池袋で信号を待っているときに眺めていたパルコの大型ヴィジョンの星占いは最下位で、「みんなが応援してくれるとき。頑張って走り抜けて。」という文言に励まされたりしている。うだつのあがらない現状を、こういうものに託せることに救われる。新しい職場に行きはじめて1ヶ月が経った。最初のうちはナメられちゃいけないと積極的に仕事を教えてもらおうとしていたが、必要であれば向こうから声がかかることがわかり、人によってはまったく手応えのない返事が返ってくることもしばしばなので開き直ってサボっている。出来ることもわかることも少なく、忙しなく働く人たちの中でぽけーっと立っていることへの申し訳無さは次第に薄れていって、みなさん大変ですねえとのんびり過ごすことにした。唯一のメリットはやたらと休みが多いことなのだが、時間があるのだから何かしなければというプレッシャーで休みのたびに虚無感に包まれてしまう。読書にも集中できず、映像を観る気分にもなれず、本当に無為な時間を過ごしている。モラトリアム、という言葉を学生時代ぶりに思った。何もする気になれない。部屋は散らかったまま、睡眠時間が日に日に増えている。まあ、別にいいか。猫だっていちにち寝ているのだし。

f:id:Vanity73:20180713125829j:image集中力が散漫なときは短歌がいい。1ヶ月辛かったね、と自分に穂村弘の『水中翼船炎上中』を買ってあげた。こういう風に理由をつけないと2400円の本を買うのにも躊躇してしまう自分の貧しさ。実家暮らしで貯金もしているのに、なんだか貧しい。心が。そういうときに穂村さんのどこか虚しく、それでも何かを諦めきれないような言葉がとてもいい。

水中翼船炎上中

水中翼船炎上中

 

何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿

<出発>

玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ

玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ

 

ずっと気になっていた木下龍也と岡野大嗣の『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』も読んだ。男子高校生ふたりの7月頭の7日間を詠んだ歌集なので、今の時期にぴったりだ。2,30代の歌人ふたりが高校生になりかわっているというのがもうすでに青春というか、10代だったころの痛がゆさを俯瞰しつつ、まだその頃の実感が残っているような手触りもある。

ねむってるあいだのぼくを借りていた天使がぼくを返し忘れる

(木下龍也)

 

SPANK HAPPY (official)さん(@spank_happy)がシェアした投稿 -

現在、私の生活を潤してくれているのは間違いなくSPANK HAPPY。ワンマンライブのチケットは取れなかったので菊地成孔のブロマガを購読してGREATHOLIDAYでのライブ映像を毎日見ている。声明文もインタビューもInstagramもこれでもかという充実ぶりで、毎日最高大好き。菊地さんが小田さんの才能に触発されるようにして生き生きと楽しそうだし、小田さんの可愛らしさも日に日に発揮されていてまんまとやられている。ODにパンを与えるBOSSの表情よ!白いシャツのペアルックは双子のようで、バンドTシャツのときは師弟のようで、なんて複雑かつシンプルな関係性を提示してくれるのだ。今年の夏はSPANK HAPPYがいればそれでいい、というくらい好きです。

f:id:Vanity73:20180713125759j:image中学生か高校生の頃からか、耳をいじる癖がある。耳全体を縦に折り畳んだり、耳たぶを内側に丸めてみたり、いちど触り始めるとなかなか止められない。授業中や眠れない夜に気付くと触っていることが多かった。ここ数年はしばらく止んでいたその癖が最近また出ている。仕事中や電車に乗っているときにふと耳を触っていて、そういえば昔よくやっていたことを思い出した。単純に心地よくてつい触ってしまうのだけれど、そういう癖はきっとストレスか何かだろうと踏んで検索してみると、案の定ストレスや不安の現れらしい。むしろストレス由来ではない手グセや悪夢は無いような気もするが。それから、寂しい、甘えたいという気持ちの現れでもあるようで、それはまあ、いつだってそうですよね、と思う。人と話しているときは触らないようにしているけれど、コミュニケーションにストレスを感じていると触ってしまうらしい。今の職場にうつってから、学生時代に感じていた居心地の悪さがよみがえっているようだ。体育の時間にボールを遠くへ外したときの、大縄跳びに入れないときの、ペアを組めといわれたときの、グループワークで的はずれな発言をしたときの。いつも何か間違えているような気がする。

退屈な町の窓から音姫みたいな鳥のさえずり

街行く人が次々と嘔吐する夢を見た。精神分析するまでもなくストレスが現れていて思わず笑ってしまう。よせばいいのに、夢占いを検索してみると他人が吐く夢というのは「対人関係における運気の低下を暗示しています。近いうちに他者から騙されたり裏切り行為を受けたりし、それに伴い強いストレスを抱える危険性があります。」ということらしい。しかし、夢の中で散々吐き散らしたおかげか、気分は不思議と悪くない。場面が転換して、とろサーモンの村田さんに飲み屋でナンパされる夢を見たことのほうが謎で心配だ。顔が結構好きなんですけれども。

f:id:Vanity73:20180608101551j:image新しい職場は自分で聞かないとこれ以上は何も教えてくれないと分かったので少し頑張ってみたが、そもそも新人を受け入れる体制が整っていないことも分かってきた。各々が抱える煩雑な業務を捌ききれておらず、こちらに指示を出す余裕がないように見受けられる。業務を体系化できていないので一通り教えてこれやっといて、というのも出来ない。役に立ちそうな人と動き方も少しずつ分かってきたので、立て直そう。基本的に職場の人たちは親切なのでそのあたりの苦痛は少ないのがせめてもの救いか。しかし肌に合わない。世間知らずなのでわからないですけれど、社会って辛いんですね。働いてる人みんなえらい。ブログやTwitterで一方的にしか知らない人たちも一様に大変で辛そうで、大丈夫かなあと思う。文章に出力するまでにもたくさんの辛さと苦しさが渦巻いているのだろうな。それを断片的にでも読める、知っているということに不思議と救われている。たまに、この人に比べたら私が辛いというのは贅沢だな、とか、どうして私は恵まれているのにこんなに駄目なんだろうと思ってしまうけれど、私の苦痛は私だけのもので、ちゃんと苦痛を感じていい。でも、何も言ってくれなくていいから、私が苦しいことを誰かに知っていて欲しくなるし、何もできないけれどあなたが苦しいことを知っているよ、と思う。対人よりも気兼ねなく辛い苦しいと言えるインターネットが好きだ。

f:id:Vanity73:20180607220609j:image7日木曜日、よみうり大手町ホールにて談ス『凸し凹る』を観た。抽象的で難しいものをイメージしていたけれど、仲良し3人がじゃれあっているようなカジュアルさとユーモアがあってとてもよかった。身体の凹凸、関節を意識させるような動きから、徐々にぐにゃぐにゃと溶けていく様がなんとも美しく官能的。もうひとつの肉体のようにうごめくスライムが血液や体液を体現しているような。すごく安直な解釈だけれど、私たちが思っているよりもずっと自分の身体は自由に動く。

f:id:Vanity73:20180607222009j:image帰りに東京駅の果実園に寄ってフルーツポンチとトロピカルなハーブティーを飲む。フルーツポンチはゼリーかと思っていたらジュースで明らかに水分を摂取しすぎているけれど美味しいからいいや。今の職場は東京ではあるが長閑な市部なので、久しぶりに東京のビル群や遠くの東京タワー、車のテールランプを見たら驚くほど癒された。埼玉生まれ埼玉育ちのフリーターがこれを言うと死ぬほどダサいですけど、わたし東京が都会が好き。大好き。以前の通勤に使っていた大手町の駅を2週間ぶりに歩いたらこみ上げてくるものがあった。この日は仕事っぽいことを貰えて、いいものを見て、好きな街の夜を歩いて、明日は休みで、これからはこうしてみよう、ああしてみようと気分が上を向いていたのだけれど、翌朝目が覚めるとポジティブな気持ちが完全に消え去っていてベッドから起き上がれない。はやく大丈夫になりたい。

大丈夫

f:id:Vanity73:20180605205705j:image大好きなアルバイト先を辞めて働きはじめた新しい職場が肌に合わない。好きな人がいて友だちがいてとても居心地のいい場所を1年と少しで離れたことを猛烈に後悔してしまうほどに辛い。どうして離れたのかというと、一緒に働いている人たちはあと数ヶ月でみんないなくなってしまうことが決まっているし、今よりも勤務日数や給料の条件がいいので、悪くないと思ってしまったからだ。まあ、非正規であることに変わりはないのだけれど。私もずっとここで働けるわけではないし、大好きな人たちを見送って取り残されるのは辛いなとは思っていたのだけれど、全体の空気や仕事内容もとても気に入っていたことを離れてから痛感している。所詮はアルバイトで、フリーターで、ずっとここに居ていい訳はないのだけれど、今はあの場所が恋しくてたまらない。

前と職種は同じだが、まるで勝手が違う。新しい環境ではどこでも仕方のないことだけれど、右も左もわからない、誰が誰だかわからない、誰に聞けばいいのかわからない、自分が手を出していい範囲がわからない。基本的な案内を受けたあとは忙しなく働く上司たちの間をたらい回しにされて、向こうまでどうしよう、何やってもらおう、という始末だ。研修のレギュレーションくらい作っとけや。私が劣っていて理解力が乏しいだけで、普通の人だったらあのくらいの説明で立ち回れるのだろうか。どこもそんなものなのだろうけど、体系的に研修してくれた前職場と比べるとため息も吐きたくなる。この感じ、学生時代に短期アルバイトで入ったホームセンターで、無計画に採用したので仕事がなくなり人員がダブついて放置されてたときと全くおんなじだ。あのとき一緒に愚痴っていたバスケ部で背の高い同い年の男の子、元気にしているだろうか。自分で動け、聞けということなのだろうけれど、ゆとり世代には無理があるじゃないスか〜休憩室も人が多くて全く安らげないじゃないスか〜でも妙齢の女性が多くてコミュニケーション取っておかないとキツい環境で最悪じゃないスか〜

もうひとつの悩みの種は、完全に自業自得なのだが、ここで働くことになったら一緒に暮らしてもいいかもね、という好きな人の言葉を完璧に真に受けて、勢い余って面接で採用されたらこちらに引っ越しますと言ってしまったことだ(応募したときは運試しくらいの軽い気持ちで履歴書にも書いてしまったので言い逃れが出来ない)。ここも通勤に1時間以上かかるし、きっと交通費を支給しなくていいなら、ということが採用の最たる理由なのだと思う。勤務中はそのことは気にしなくてよいのだけど、担当者にはさくさくとせっつかれているので気が重い。嘘は吐いていない。本当に引っ越すつもりはあるけれど、向こうが思っている以上に時間がかかりそうなのですみま千円。好きな人からしたらもしいい物件があればくらいのニュアンスだったと思うのだけれど、私は好きな人が総てで何もかも真に受けてしまうので、そのことでも困らせてしまって頭を抱えている。何気ない言葉も冗談もぜんぶ本気にしてごめんね。そのうち「いつ結婚してくれるの?」と言い出してしまうことだけは自分自身で阻止しなければならない。受けたときは新しい職場なんて正直どうでもよくて、好きな人と一緒にいられるならということしか考えていなかった。馬鹿だなあ。何をやっているんだろう私は。でも実際、職場が変わって仕事での関係がなくなったことで進展した部分も大いにあるので、間違いではなかったと思いたい。職場で会わなくなったかわりに毎日何かしらの連絡をくれる度に、私の好きな人は本当に最高と言いふらして回りたくなる。

慣れない環境でうまく立ち回れないのも、仕事ができないのも、後先考えずに行動した自業自得の悩み事も、ぜんぶ私が悪くて逃げ場がない。一点の隙もなく私が悪いから、自分でなんとかしなくちゃならない。はやくぜんぶが大丈夫になってほしい。相変わらず、生きていくセンスがない。

前の職場を辞めるときには一緒に働いていたみなさんが労いの言葉をくれて、本当に恵まれた場所に来れたなあと思った。送別のメッセージカードとか、お花とか、お菓子とかはじめて貰った。とても嬉しくて、いままで人として欠けていた何かをすこし取り戻せたような気がした。ここがあまりにも特別なのだけれど、ちゃんと愛せたし愛されることができたと素直に思える。たとえそれが大人のマナーでしかないと言われてもそれでいいのだ。愛着が湧きすぎて、自分で決めたのに辞めることを周囲に話しながらも後悔が込み上げていたけれど、新しい職場に愛着を持つ予感はまるでないので、この寂しさを味わわずに済むと思うと、それはそれでよいかな。

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灼けつく東雲

f:id:Vanity73:20180425225559j:image4月からシフトが少し変わって、これまで無縁だった通勤ラッシュの電車に乗るようになった。朝は覚悟していたが、夕方もこんなに混んでいるのかと驚いてしまう。みんな意外と定時であがって帰っているんだなあ、と世間知らずに思う。相変わらず片道1時間半かけて通勤しているが、私より前から乗っていて、私よりもずっと先で降りる人たちはどこからどこまで行くんだろう。もっと便利でよい暮らしを、と思っているうちに毎日はどんどん終わっていくんだろうな。どうしてここにいるのか、この先どうなっていくのか、考えても仕方がないと思いつつ、どうしても考えてしまうときはいつも細野晴臣の「恋は桃色」を口ずさむ。

ここがどこなのか どうでもいいことさ

どうやって来たのか 忘れられるかな

たまもの (ちくま文庫)

たまもの (ちくま文庫)

 

先月に冨永昌敬監督の映画『素敵なダイナマイトスキャンダル』を観てから、末井昭が気になって原作やエッセイ『自殺』を読んだ。読めば読むほどにわからなくなる底なし沼のような人だ。映画での柄本佑の恐ろしくなるほど空虚な瞳と乾いた笑い声も素晴らしく、末井さんの正体が見えない感じを見事に体現していた。あわせて現在の妻である写真家・神蔵美子の『たまもの』を読む。坪内祐三末井昭との不思議な関係や自身の創作活動の中での悩みや苦しみがそのまま綴られていて、私のはずっと卑近だけれどもいまの自分の苦しさと通ずるものがあってなんだか心強かった。神蔵さんの正直さと真摯さにとても救われている。末井さんと神蔵さんは聖書を生活の指針にしているとあって、私も聖書を読み始めたところだったので妙な引き合わせを感じる。あまり関係のない事柄が、私の中で巡り合わせのように接続することが多々あって、そっと導かれているのだと思う。信仰というとなんだか仰々しくて身構えてしまうが、このふたりの聖書との距離感も自分と近いような気がして、これでよいのだ、と正解に巡り会えたような気がした。

POLY LIFE MULTI SOUL (初回盤A)

12日は恵比寿リキッドルームceroが主催するキセルとの2マンライブ Contemporary Tokyo Cruise -POLY LIFE-へ。ceroはセットリストの殆どが5月に発売されるアルバムからの新曲で、以前から披露している曲の仕上がり具合と、はじめて聞く曲の得体の知れなさに興奮しきり。とんでもない拍子に美しい詞、聞いたことのない見たことのない景色だ。アンコールの照明が新しいアー写と同じ緑と赤でとても格好良かった。しかし新曲たちを聞けば聞くほど全貌がわからなくなるアルバム、一体どんなことになっているんだ。
13日、シアターコクーンにて『ヘッダ・ガブラー』を観劇。華と実力を備えたキャストを堪能する。死ぬほど退屈なヘッダ・ガブラー、可哀想なヘッダ。手に入るものは要らなくて、気付いたときにはすべて失っている。魔性は最終的に自分を滅ぼしてしまうのだ。枯渇するヘッダ・ガブラーを気高く、抑制の効いた熱量で演じる寺島しのぶがとても良かった。観劇後、ロロの世界展を展開していた奥渋谷のSPBSへ。三浦さんの選書から太宰治の『女生徒』を購入した。ロロの戯曲や講演記録も本になったら読みたい。三浦さんの文章をもっとたくさん紙媒体で読んでみたい。

14日、本多劇場にてナイロン100℃ 『百年の秘密』を観劇。ナイロンは脚本も演出も演技もあまりに水準が高くて当然のように楽しんでいるけれど、このクオリティは稀有で奇跡の賜物であることを折に触れて思う。とても壮大だけれど、ひとつひとつのシーンはとても些細で、その小ささが愛おしい。みのすけさん演じるチャドが好きで、彼にも描かれていない沢山の時間があって、人生があることを想像する。だからこそ最後にチャドが担った役割は、彼にとっての幸福だったんじゃないかと思いたい。彼らの一生を俯瞰しながら想像を巡らせると、自分の知らないところに幸せが存在しているのかもしれないと思う。

f:id:Vanity73:20180425225317j:image週末に予定が詰まっているときに限って風邪をひいた。喉の痛みや鼻水も怠いのだが、週末まで悪化させるわけにはいかないという妙なプレッシャーを自分でかけて疲れてしまった。20日はシアタートラムへ城山羊の会『自己紹介読本』を観に行く。よりにもよって小声で話すお芝居に、咳が止まらなくなったらどうしようとドキドキしていたのだけれどなんとか乗り切った。城山羊の会、観れば観るほどに好きになる。見てはいけないものを覗いてしまった居心地の悪さと、気まずく狂った状況を俯瞰してニヤつく意地の悪さがたまらない。岡部たかしさん、本当に芸達者で魅力的だ。

帰宅後、従姉妹の結婚式のため盛岡へ車で向かう。大好きな夜中のサービスエリアに一度も降りられないほど眠り続けた。市内はどこへ行っても見知ったショッピングモールとファミリーレストランとコンビニが並んでいて、自分の住む街と大差ないのになにかが違って見える。違って見えるのにすべてが同じに見える。次の日は出勤なので新幹線で帰る。少しずつ山が減って、ビルの窓が増えていく。パラレルワールドのようで、車窓ごとにそこで暮らす自分を想像してみる。最近、映画『百万円と苦虫女』みたいに色んな土地を転々とする妄想をよくしていて、最終的には熱海の温泉まんじゅう屋さんかロープウェイで働きながら暮らしたい。

季節外れの陽射しと気温の日曜日は、夏の始まりというよりも晩夏のような雰囲気だった。暑さも盛りをすぎて、冷たい風が吹きはじめたような気候のようで、季節がどんどんスキップしていく。この日は年末ぶりに友人たちと集まってご飯を食べた。中学生の頃からもう10年の付き合いになる。昔からずっと変わらないトーンでくだらない話から仕事や生活のあれこれまで話していると、なにもかも大丈夫な気がしてくる。どうやって仲良くなったのかもう覚えていないけれど、当たり前のように続く関係が尊い

f:id:Vanity73:20180425230330j:image色んなことがぜんぜん上手にできない。昔から、なんとなくの身の丈で失敗しなさそうなところを選んで、できるフリをしてきたけれど、そうしているうちに本当になにもできなくなってしまった。頑張る、とか、努力とか、そういうのもぜんぜん分からない。誰かのために何かをする、というのが昔からできなくて、自分の行動が妨げになってしまうことが怖い。そうすると、なにもせずにいることが私にできる最善、という結論に至る。本当に覚悟のある人は、そういう部分も引き受けてケアしていくのだろうけど、あまりにも難しい。愛とかそんなフリしてるけど、エゴはぜんぜん消せなくて、がんじがらめだ。私の言動でいちいち寂しくなったりなんてしないだろう。わたしには必要だけど、そう言ったところで、差し出されたって要らないものはあるだろう。なんとか自分のメリットをプレゼンしたいけれど、最初からそんなのないからぜんぜんできない。

途方もない

途方もない孤独。目の前の孤独。

自分がこれまで戯れてきた生易しい寂しさや悲しさとは比べものにならないほどの、圧倒的な孤独が目の前にある。

人が抱える恐怖や不安、苦しみは想像しても想像してもわかることはできない。むしろ想像しようとすればするほど、簡単に触れようとしてはいけないものだと実感する。

それでも考える。いま孤独を目の当たりにしている巡り合わせについて。

その孤独を思って涙を流す間だけでも、その人から恐怖や苦しみが消える仕組みはないだろうか。自分が泣いても、これは結局私のための涙でしかない。

私がもたらすことのできるものはなにもなく、ただじっと立っている。目の前に立ちふさがり影を落としているのは自分ではないかと思い、心臓のあたりがぐっと押されるような心地がする。

出さなかった手紙たち

都内に雪が舞った3月の半ばから、瞬く間に桜が散ったいまのいままで、何度も書いては途中で手を止めた文章たちが蓄積している。思考は延々とループして、辿り着いたと思った答えをぐしゃぐしゃに丸めて放り投げて、拾って広げて、もう一度丸めて、を繰り返す。好きな人のことを想えば想うほど、私から離れた方が好きな人のためになるという結論に辿り着く。しかし、そう思うと心臓のあたりがきゅっと締まって苦しくなる。もうすぐ誕生日を迎えるからお手紙を書こうかと思って、言葉を考えて、これはいいかもと思うけれど、どうにも自分に酔っているみたいな気がして、やっぱり渡せない。どうやったら自己陶酔と憐憫をやめられるのだろう。

f:id:Vanity73:20180412225706j:image春の陽射しにまばたきする間に桜が開いて、立ち眩んでいる間に散っていった。本当にあっという間だった。仕事終わりの夜道、生暖かくなりつつある空気の中で、ひんやりとした風に巻き上げられた花びらがきらきらと光ってみえた。うろこのような、子どもの頃にお気に入りだった小さなバッグのスパンコールのような白とピンクのホログラム。万年思春期の私はここ数日間ずっと思い詰めていて、現実と詩情の狭間で情緒がぐちゃぐちゃになっている。ポエジーだけで生きていけたらどんなにいいだろう、なんてことを思いながら本屋をうろうろしていたら、Twitter発のポエムみたいなものをまとめた本が並んでいた。泣き顔の女だとか空だとかのイラストと一緒に、好きで好きで、とかなんとかそんな言葉が並んだ表紙を見た瞬間に、私が未練がましくこねくり回している感情や言葉も結局のところこういうものなのだと思って急に恥ずかしくなってしまった。こういうものに救われる子もいるかもしれないし、頭から否定する気もないけれど、あの小っ恥ずかしさは今の私そのものだ。陶酔的で安っぽくて。これまでも散々に書き散らしてきてなんだけれども、とても人様に渡していいものではない。今だって免罪符みたいにこんな書き方をして、とても卑怯だ。

f:id:Vanity73:20180412230302j:imageポエジーに、リリカルに生きる方法はたぶんひとつある。ひとりで生きることだ。特定の誰かに自分の詩を押し付けないこと、目の前の共有や共感を求めずにいること。身体に絶えず湧き上がる詩を詠むためには、孤独でいることだ。人はみんな孤独とずっと思っていて、今もそうだけれど、なんとか上手に、ひとりとひとりで並ぶことはできないでしょうか。どうやったらできるでしょうか。みなさんはどうやって、人と並んでいるのでしょうか。冷静に事実を鑑みると実は順調というか、そんなに思い悩むこともないような気がしてるけど、どうしてか怖くて怖くて仕方がないのだ。怖くて出せない手紙をあなたに託します。

 

昨年の今頃は誕生日も知らなかったと思うと、こうしてお祝いできることがなんだか不思議な心地です。

あなたは私にとって、突然降り注いだ光です。薄曇りだった私の毎日を照らしてくれた。

私が受け取った沢山の光は、あなたからの、そして神さまからの贈り物なのだと思っています。

あなたの聡く美しいこころは、きっとこの先もたくさんの人を照らし、救います。

あなたの過ごしたこれまでが、あなたのこれからの支えとなりますように。

これから迎える新しき日々が、愛おしき祝福と希望で満たされますように。

1秒でも長く、穏やかな時間を過ごせますように。

おやすみなさい。また明日。

お迎えの季節

f:id:Vanity73:20180227000607j:image好きな人とごはんの予定が翌週に振り替わって、中止になった訳ではないので何も問題はないしちゃんとフォローもしてくれたのに、その日の楽しみがなくなってしまったというわがままな悲しみに暮れた夜の間に、春の気配を伴った激しい雨と風が冬の空気をさらっていった。3月1日は気温が20℃に迫り、日中はコートを着ずに過ごせるほどの陽気だった。数日前から鼻と喉のあたりがむずむずとして、くしゃみも出始めたのでいよいよだなと感じていたけれど、季節、特に春への変わり目というのは毎年新鮮に切なく詩人にならざるを得ない。もう、「そして名前呼び続けて はしゃぎあったあの日/I LOVE YOU あれは多分 永遠の前の日/明日、春が来たら 君に逢いに行こう」以上の春の詩はないと思うけれど。春は、春が来るなあと思っているときが本番でいちばんロマンチックだ。

f:id:Vanity73:20180301220742j:image思い返せば、去年の3月は旅行や免許合宿の合間に卒業式と慌ただしく過ごしていたおかげでフリーターになるのが不安なようなそうでもないような、あらゆることへの実感を鈍らせた心地でいた。そして4月、好きな人を見た瞬間に密かに高揚してときめいてときめいている間に1年が過ぎようとしている。そういえば1年前のあの日も夕方に突然はげしい雨が降ってきて、春の嵐がひんやりとした静けさを残した帰り道、キリンジの「エイリアンズ」を聴きながら歩いたのを覚えている。私の永遠の前の日、ってあの日のことじゃなかろうか。そのほんのすこし前、大学の4年間は真面目にこなして、自分の好きなものを心置きなく楽しんで、人間関係もそつがなくちょうど良くやってきて心乱されることもなくフラットな状態を手に入れることができて、誰に対してもそれぞれの良いところや面白いところを程よい距離で心の中で愛でていた。そのときは本当にそれができていた思う。その代わりに、もう恋愛をすることはないと半ば本気で思っていたけれどそんなことはなく、フラットな状態もいまやぐずぐずに崩れ去った。好きな人に対して執着心みたいなものも芽生えていることに気が付いて、よくないなあと思いながら自分を宥めすかしている。もともと人と関わることが好きと自覚しながらも、どうしても苦手で(それは例えば運動ができない、と同じ類のことだ)避けてきたけれど、新たな環境で手に入れた新たなコミュニケーションは楽しくて随分と助けられた。他愛のない会話でも、人と話すことはある種のセラピーのようなもので、はしゃぎすぎず喋りすぎず、かといって喋らなすぎず、程よく平和なおしゃべりができると気が紛れる。ひとりで思いつめがちな人間なので、たまには人に聞いてもらったり、人の話を聞いたりしたいと思いつつ、人を誘うという行為のハードルがいまだに天より高い。「カラオケ行かない?」とか言ってみたいですよ、本当に。

ポスター/スチール写真 A4 パターン2 スリー・ビルボード 光沢プリント

帰る頃には肌寒くなっているだろうと思いながら、飽きてきたコートを着ずに済むことが嬉しくてワンピースにストールだけで出かけた。冬の食べ物や洋服にちょうど飽きた頃に次の季節がやってきて、四季というのはどうにもよくできている。私のこれまでも、生き飽きた頃に新たな出会いがもたらされることが多くて、どうにもよくできている。浮かれていると頭を冷ませと言わんばかりに寒の戻りがやってくるだろう。1日といえば映画の日マーティン・マクドナー監督『スリー・ビルボード』を観た。捜査が進展しない娘の殺害事件に対して道路沿いの看板で警察を挑発する、というあらすじからはもっとわかりやすい構造のクライムサスペンスを想像していたのだけれどまったく違った。誰が正しいとか悪いとか、間違っているとか、更にいうと好きとか嫌いとか、すべてのことはきっぱりと分けることができない。事件の真相は宙に浮いたまま、ミルドレッド、ウィロビー、ディクソンの行動と奇妙な関係性で物語がドライブしていってとても面白かったな。ミルドレッド、めちゃめちゃ格好良かった。やることなすこと容赦なくて気持ちが良かった。乱暴な行為に意味を持たせすぎないというか、肯定でも否定でもない温度。その微妙なニュアンスは俳優の力量も大きいのだろうと思う。素晴らしかった。


カネコアヤノ「さよーならあなた」

阿佐ヶ谷へ移動してgionへ。インテリアがところどころキラキラしていて上品な華やかさが素敵だ。ひとりでブランコに座る勇気がなかったのでリベンジしたい。gionといえば松本壮史が監督したカネコアヤノ「さよーならあなた」のMVの舞台でもある。最近カネコアヤノをよく聴いている。詞の乗せ方が気持ちよくて、特に「マジックペンと君の名前」の「君の名前はいい名前 ねえねえねえ 呼んだだけ」とかずっと聴けちゃう。gionでワッフルを食べて、阿佐ヶ谷アルシェでほりぶん『荒川さんが来る、来た』を観劇。ナカゴー『ていで』と同じく開演前から女優たちが舞台でも各々の台詞を繰り返して、自己紹介や裏設定を話してからはじまるスタイル。文脈から離れた台詞そのものの面白さと、あらかじめ知っていることで生まれる笑い。ロジカルなのに、終盤の肉体を酷使した畳み掛けは理屈抜きに笑ってしまうし、「すごい」以外の語彙が消えてしまう。どうやって演出したらあんなシーンが生まれるんだ…。厄介な荒川さん(川上友里)の「お話がしたかっただけなの」という台詞、切なくてあの状況だからこそ響いてしまう。誰かの代わりになること、というテーマもいいな、と思いつつも猫背さんの暗転のシーンで思わず脱力するほど笑ってしまった。なんかもう、降参です、という面白さ。 f:id:Vanity73:20180303232611j:image春物を表に出しておこうと衣替えついでに、もう着ないものは処分しよう、と服の整理に取り掛かる。今年の冬に一度も袖を通さなかったコートを最後に羽織ってみると(それがいけないのだけれども)、久々だから新鮮に思えてまだ取っておこうとついクローゼットに戻してしまう。サイズが合わなくて着心地が良くないなと思っていたものも、暖かくなったら下を薄着にして着ればちょうど良いのではと気付いてまた戻す。数年前から太って入らなくなったワンピースも広げたら可愛いくて、痩せたら着れるし、とまた戻す。このシャツ、インナーにしたら可愛いじゃん、とまた戻す。まったく減らない。もう諦めた。しばらく忘れていた服を掘り返すと、出会い直しているみたいで楽しい。今度のお出かけでは買ったばかりの千鳥格子の靴下をおろす。この陽気ならばあのワンピース、とも思ったけれどまた寒くなって雨も降るらしい。どうしようかな。銀座の街に/革命が起こったら/どのブランドを着て/戦おうかな?