ニュースクラップタウン

私事で恐縮です。

WHAT'S GOING ON

自分では操作のできないランニングマシンに乗って、ただひたすら足を動かし続けているような夏だった。必死に走っているつもりでも一歩も前には進めず、ずっと息がきれている。

加速と減速を繰り返しながら、ペースをつかんだと思えばまた足が空回りして何度も転びそうになる。前を向いていなければバランスを崩しそうで、周りをふり返る余裕はない。

ここから降りるには、回り続けるベルトコンベアから飛び降りるしかない。

あるいは、足を動かすことを諦めて、追突へ向かう。

そう思えば、自分の意志とは裏腹に急停止をすることもある。束の間の休息。そしてこのランニングマシンを操作する何者かの存在を思い知る。特定の信仰は持たないが、すべては天上の大きな存在の采配に過ぎないという実感が、諦念と希望とともに湧き上がる。そんなとき、いつもceroの「orphans」がリフレインする。

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

僕たちはここにいるのだろう

急停止ののち、またゆるやかに動き出したランニングマシンの上で息をととのえる。喉のあたりに溜まっていた熱がようやく解けて、肺まで深く息を吸い込めるようになってきた。気が付けば、このまま永遠に続くように思われた酷暑は鳴りを潜め、道端の草木も衣替えをはじめている。

速まった鼓動の名残は、得体のしれない焦燥感と倦怠感として身体にまとわりついたまま。空疎を埋めるように旺盛な食欲と消化不良で痛む胃腸をそのままに、外の景色は変わっていく。わたしはまたランニングマシンの上で、次の急加速をおそれながら、またどこかで期待しながら、足を動かす。

4月ごろから続いていた慣れない仕事に四苦八苦する日々がようやく落ち着き、必要以上の情感を込めて振り返る余裕ができた。知識も経験も不足した状態で、理解が追い付かないままメールの返信とスケジュール調整に奔走していた。忙しさに加えて、自分の要領の悪さにほとほと呆れるダメージも大きい。勝手に心の支えにしていた先輩の退職も重なり、せめて自分の意志で叶えられる望みくらいは、という気持ちから食べたいものを食べ、時間のあるときには行きたいところに行く、と好き勝手に遊んでいたら体重は約2kg増え、貯金は目減りした。

この夏は自炊をする意欲や気力がまるで沸かず外食や総菜に頻繁に手を出していたのも食生活が乱れる要因となった。暑さのせいとばかり思っていたが、仕事で段取りを考えながら連絡や準備を進めることに手一杯で、生活の中で段取りをこなす余力が残っていなかったのだろう。料理の楽しさは、肉に下味を付けてなじませる時間や、野菜の下茹で、コンロと料理道具の使い分けなど、段取りをうまくはめていくことに他ならない。自分のために献立やお弁当の彩りを考えることは、自分を労わることで、それは余裕がなければ到底できないことを思い知った。

自分が責任を持って進めなければ、という使命感からアドレナリンのようなものでも出ていたのだろう、休日も仕事のメール通知をオンにしてチェックしていれば十分に気が休まるはずもなく、9月に入って通知を切ってようやく、自分の消耗を顧みることができた。

しかし不思議なもので、さあいよいよ正念場という8月末に、祖母の訃報が届き、3日間の忌引き休暇を得た。報せを受けた日の夕方には家族と飛行機で福岡へ向かい、翌日の葬儀に出る。どうせなら、と葬儀のあとは福岡の町中に一泊して母と弟と博多を遊覧した。91歳の大往生であるから、悲しさよりも感慨(という言葉が相応しいかはわからないが)が大きく、うたたねをしている顔がどこか西田敏行に似ていて可愛いおばあちゃんだったな、なんて思ったりしていた。火葬を待つだけの時間、日常での忙しさの最中にぽかんと放り投げられた穏やかなひとときは、生きているものの都合のよい解釈であることは承知の上で、ギフトのようだった。

幼いころは家族に連れられて帰省し、どこへ向かうのかよく知らないまま車で連れられるばかりだったが、いまとなっては自分で行き先を決め、ルートを決めて運転することが普通になった。このように誰かに連れられ、バスや飛行機に運ばれていくということがとても久しぶりで、このことも先述の大きな存在への実感へとつながっている。

 

Saravah

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大好きな職場の先輩が退職することになり、寂しくてたまらない。いままでも退職される方を見送ることは何度かあって、しんみりはすれど、ここまでの寂しさ、悲しさは経験がなく、自分でも戸惑っている。

先輩とは映画や音楽、色々な文化の話をすることができて、それは仕事につながることから無駄話まで、私にとって計り知れないほど豊かな時間だった。毎日そんな話をする訳ではなくても、職場にそういう人がいる、というだけでも大きな心の支えとなっていたのだ。

このまま関係がなくなってしまうのがあまりに惜しく、挨拶に渡すお菓子に連絡先を入れようか迷いに迷って、結局入れなかった。10年くらい下の後輩に連絡先を渡されても困るだろうし、向こうに判断を委ねるのは姑息だと思った。それに、職場で隙を見て無駄話をすること、仕事を通じてパーソナルが見えることが心地よかったのであって、きっとこれを超えて友だちのような存在になることはないだろう。

後輩にも軽口を許してくれるような懐の深さと、臆面なく弱さを見せてくれる人間味と、たくさんの知識、思索、それゆえの愛すべき面倒くささがあって、いままでに会ったことのない人だった。たまに顔を覗かせるさびしさにも、同質のさびしさを持つものとして引き寄せられていたのだと思う。おこがましいし、勘違いかもしれないけれど、おなじ孤独のにおいを嗅ぎ取っていたのだ。

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明日から職場に行っても先輩がいないのかと思うと、あまりにも退屈でどうしたらいいかわからない。仕方のないことだけど、もっと一緒に働きたかったし、おしゃべりしたかった。

寂しくならないように、不確かなものや状態に愛着を持たないようにしていたけれど、気が付いたらあまりにも愛おしく、行き場のない思いばかりが募る。こうして書いてみても、実際の気持ちには追いつかず、戸惑うばかりでいる。恋愛とも、友情とも違う、言葉のない感情。ただ胸の辺りがぐっと押されるような苦しさ。息苦しさ。

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今生の別でもないけれど、たかが職場の同僚という関係性はあまりにも希薄で、離れれば無くなっていく。むしろ、だからこそ美しいのだと思う。きっと1年も経てば私もこの気持ちは忘れてしまうだろう。

元気じゃなくてもいいから、なるべく健やかで、穏やかな日が1日でも多くありますように。またどこかで会えたら積もる話でも。

永遠の無駄話

f:id:Vanity73:20230521133331j:image自転車で通勤していると、ちらほらと立葵の花が開きはじめていることに気がつく。朝顔に似ているから、真夏の植物という印象が強いけれど初夏が盛りなのだなと毎年思う。日に日に茎を伸ばしてたくさんの花をつける姿が夏の騒がしさを思わせる。栗の花の香りも漂いはじめた。勢いづいて萌える草木とともに、仕事も忙しさを増して目まぐるしい。

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昨年まではそんなこともなかったのだけど、ここ2週ほど続けて家に持ち帰って仕事をしている。自宅のノートPCはスペックも低くすべての資料を参照できるわけでもないので効率は低いが、多少は平日の業務の助けになっている。現状が苦痛かというと、案外と楽しく、好きでやっているという感覚のほうが強くて、自分でもこれが正しいとは思わない。でも、学生の頃から就きたかった職業に正規で職を得て、毎日忙しくしていることが嬉しい。それに休日は時間を持て余していて、いつも通り映画も見ているし、古本屋や喫茶店に出かける余裕もある。それでも休日は長いと感じる。

f:id:Vanity73:20230521134045j:image子どもの頃から自分は人見知りだということを盾にしてコミュニケーションを怠ってきた人間なので自分に期待するハードルが著しく低く、いま職場で業務に必要なやり取りをしたり、まして楽しく談笑したりしている自分がどこか他人のように思える。他者から見れば拙いことは承知の上で、よくやってるじゃん、なんて思う。恵まれた環境だからこそ、と調子に乗らないように自分を戒める。

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好きな映画や音楽の話をできる人もいて、おしゃべりできると嬉しい。もっとたくさんその人の好きなものや見てきたもの、考えていることを知りたいと思う反面、仕事の束の間だからこそ楽しいのかもしれないと思う。そして自分の話を聞いてもらえて、私の生活にはほとんどないことなので舞い上がっているのも感じる。とても危ない。自分のことを特定の相手に知ってもらいたい、聞いてもらいたいという欲求を持つことが、それを実行してしまうことがこわい。誰かの話を聞くことも、自分の話をすることも、すべて一方通行のままがいい。可視化されない交歓だけで満足したい。

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昔からほぼ無意識に公私をきっぱりと分けるタイプで、自分ひとりの時間や空間を守るようなところがある。それが、職場で対外的なコミュニケーションの域を超えた趣味の話をしたり、家で仕事をしたりしていると、その境目がどんどんなくなってきて、いままでどこか違う人間のように分たれてきた外と中の自分が、ひとりの人間として存在していることに微かな違和感を覚える。それは外で自分の話をしてしまうことが嫌なのではなくて、むしろ、それが楽しいと、他者とつながることのよろこびを知ってしまうことがこわい。それはどうしたって永遠ではないから。

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忙しいと言ったけれど、こんな暗くて仕様のないことを考える暇も体力もある。やるべき仕事と毎日の生活があり、気力も体力もある。ここ2ヶ月は体重が40kgを超えて戻らず悶々としてはいるけれど、それも仕事をしている間は忘れている。ごはんも美味しい。好き勝手に遊びすぎて貯金が目減りしていて焦ったりしているけれど切羽詰まってはいない。これまで生きてきた中でいまがいちばん穏やかで楽しくて幸せで、死ぬならいまだなと思う。死ぬ、というか、この状態のまま霧のように消えていけたら、と思う。でも悲しいかな私は肉体を持つ人間だから、今日も動いて食べる。明日の服と献立を決める。仕事の段取りも考える。そしてこの日々がすこしでも長く続きますようにと祈りながら眠る。

美しい夜と朝の風景について

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1日中雨の降った4月の半ば、お昼に新宿でウォン・カーウァイ『若き仕立て屋の恋』、渋谷でダニエル・シュミット『書かれた顔』、下北沢でVIDEOTAPEMUSICの即興演目「湖底」を見てから、車の少ない環七を抜けて自宅のある横浜方面のロイヤルホストへ。ドリンクバーといちごのヨーグルトジャーマニー、追加でコーヒーゼリーサンデーを頼んで、23時の閉店まで居座る。というのも、美しいと名高い閉店アナウンスを聞いてみたかったからだ。これはVIDEOTAPEMUSICのインタビューでも触れられていて、聞きに行くならば今日ほどうってつけの日もないだろうということで。

kakubarhythm.com

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私はいつも早寝早起きで、夜は遅くても20時には寝てしまう老人のような生活をしているので、ライブのような予定でもない限り起きていられないのだ。お昼に映画館で買ったウォン・カーウァイのパンフレットをめくりながらパフェをつつき、近くのテーブルで家族連れが話す海外旅行の計画をなんとなく聞きながら過ごす退屈な夜。ラストオーダーの22時半を過ぎると厨房からは片付けの音が響き始めて、居座ることが申し訳なくなるが、他にも2組ほどまだ帰る気配のないお客がいる。なんとなくそわそわしていると、閉店3分前についに流れ出すアナウンス。

ハイウェイを走る車のテールランプの光は

無数の赤い光の帯となって

暗い夜のしじまを流れてゆきます

明日の朝もまた コーヒーの香り

ロイヤルの香りを店内いっぱいに漂わせて

皆様のお越しをお待ち申し上げております

1日の終わりと始まりをこんなにも美しく彩ってくれる存在が他にあるだろうか。どの時間帯も、嫌な顔ひとつせず丁寧に接客してくれる店員さんもロイヤルという響きが相応しい。

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夜のロイヤルのあとは朝のロイヤルも味わいたいということで、別の日には6:30から営業している新横浜店へ赴いた。8時からのモーニングは以前行ったことがあるのだけど、いくつかの店舗では朝のビュッフェを提供しているのだ。駅ビルのホテルの朝食会場を兼ねていて、宿泊客に混じり席につく。店舗とホテルの真ん中に備えられた会場は照明を抑えた吹き抜けで、レストランともホテルとも違う不思議な雰囲気。

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和洋のおかずからカレー、ヨーグルト、フルーツ、パンケーキまでとりどりで、ロイヤルの醍醐味はおかずだろうと思いつつも、普段通りヨーグルトとフルーツを中心にお皿によそう。いくつになってもビュッフェはわくわくしてしまう。

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休日は4時半には目を覚まして活動を始めるので、出かける予定がある日は人の少ない時間帯を満喫するのが好きなのだけど、早朝でも空いているのはコンビニかマクドナルドくらいなので、こうして開いているのが嬉しい。来られるのはたまの贅沢といった感じだが、6:30にもロイヤルの香りを漂わせてくれる存在があることの美しさ。

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4月に入ってから目が廻るように仕事が忙しく、休日になると節制も節約も考えずに遊ぶようになった。今の職場に勤め始めて3年目になり、仕事はとても楽しくて人にも恵まれていて、経済的な不安もない。大学を出てから、アルバイト、嘱託職員、とこのまま非正規で食いつなぐのだろうかという不安がこびりついていたのが、少しずつ剥がれてきたよう。好きなようにお金も時間も使っていいのだと思えるようになった。遊ぶといっても、古本と古着と中古レコード、喫茶店ファミリーレストランが中心で、たまの贅沢にクラシックホテルやレストランに行くくらい。

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新年度すぐにあった緊張する仕事のあとには、憧れのAsako Iwayanagiへ朝パフェを食べに行った。8時でもほぼ満席だけど、洗練された店内と、カウンターで眺める美しい手捌きにうっとりと落ち着いた時間を過ごす。

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パフェの前には、まだ車の少ない早朝の246を抜けて、等々力渓谷を散歩した。人のいない薄暗い渓谷に、水の流れる音と草木の揺れる音、ときおり差し込む朝日に、束の間神聖な気持ちになったりする。私に必要な1日は朝の静かなほんの数時間で、あとはもう全部おまけ。午後からは、早く朝になって欲しくてさっさと眠ってしまう。たまにロイヤルホストで過ごす夜があればいい。

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あこがれ

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来ようと思えばすぐに来られるのに、なぜか足を運ばずに時間が経ってしまった場所というのがいくつかあって、伊豆にある「怪しい少年少女博物館」もそのひとつだ。何年も前に、テレビ番組でいわゆる「B級スポット」として紹介されているのを見て知ったのはもう10年以上前のことで、当時イオンモールヴィレッジヴァンガードを入り口に「サブカル」に足を突っ込み始めていた自分にとって、それはそれは魅力的だった。その後、雑誌『ワンダーJAPAN』などを経て都築響一に辿り着いてより深いところを知って、ヴィレヴァンにも時間つぶし程度にしか寄らなくなった今でも、ここは原体験としてずっと憧れの場所だったのだ。

テレビや雑誌、インターネットで見ていた大量のマネキンやおもちゃ、ぬいぐるみ、フィギュア、テレビゲームなどを目の当たりにして感じたのは、「怪しい」と銘打っているものの、奇を衒ったあざとさがないということだった。ふと、子どものころに家にあっただんご三兄弟やキティちゃんのぬいぐるみが飾られているのを見て、ここは日本の風俗史が詰まっていると同時に、個人の記憶が凝縮されているのだと思った。

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怪しい少年少女博物館」から車で10分ほどの姉妹館「まぼろし博覧会」へ。広大な土地にエリアごとにテーマを分けた展示があり、昭和の街並みや文化を再現したゾーンや閉館した秘宝館のマネキンなど、整然とした展示ももちろん見ごたえがあるのだけど、ある人のおばあさんの形見がまるでその人が暮らした部屋をそのまま持ってきたような空間で展示された「おばあちゃんの部屋」やもはやカテゴライズ不能なガラクタが詰め込まれた「ほろ酔い横丁」が圧巻だった。これは忘れられていくこと、時代の流れとともに淘汰されていくことへの抵抗なのだと思った。経済成長の名のもとに生産され、捨てられていくサイクルに反抗するように、とにかく捨てない。なんでもないようなお土産の外箱までもがここでは展示物になる。
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この日は3月にしては暑いくらいの晴天で、遠くの山が見渡せて、敷地には菜の花が咲き乱れている。開館直後で人も少なく静かな中であらゆるものに囲まれてながら、大げさだけれど、「ここは私の墓場だ」とすら思った。来る前はもっと、奇を衒った見世物的な雰囲気を想像していたけれど、まったく違うことがどのエリアからもわかる。
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憧れの場所が想像以上に自分にとって重要な場所だった感慨に耽りながら、135号線沿いで開かれていたフリーマーケットに立ち寄ると、さっきの延長のように、いろんな人がいろんなものを広げていて、中には自宅で眠っていたような食器や服もあって、この光景にすら感動してしまった。かわいいたぬき(くま?)の貯金箱を見ていたら、おばあさんが「100円だよ。それ私もかわいいと思う」と言うので買った。
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お昼は135号線を逸れたところにひっそりと佇むJikkaへ。

dancyu.jp

おとぎ話にでも出てきそうな建物の中で、地元の野菜や海藻、柑橘をふんだんに使った美しい料理が次々に出てきて夢のよう。ポークとしじみの煮込み料理がとても美味しかったのだけど、「ポルトガルの海沿いの方の料理」というざっくりとした説明で気取りが皆無なのも心地よかった。
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カウンター席で盛り付けや給仕を眺めながら、料理を拵えて提供する、という営みのシンプルさを感じられて心地よかった。
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そしてもうひとつの憧れの場所、伊東のハトヤホテルへ。わたしの一番好きなアーティストVIDEOTAPEMUSICの名曲「ミスハトヤ」や、2014年に開催された「ライブインハトヤ」など(開催当時、このイベントを知ったときにはまだVIDEOさんのことを知らなくて、足を運ばなかったことをいまだに悔やんでいる。)、とにかく惹きつけられる。部屋に入り、障子を開けた瞬間に目の前に飛び込んできたハトヤの大看板。感無量である。


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f:id:Vanity73:20230313163115j:imageチェックイン後は伊東の街を散策。Jikkaで満腹になることを見越して夕飯は付けなかったので、梅家のホールインと三木製菓のケーキを買って部屋で食べた。
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高度経済成長期やバブルを経て、時代の空気を凝縮したようなきらきらのシャンデリアや絨毯、機能性や合理性とは無縁の美しさがそっくりそのまま保たれている。日常を離れて夢を見せる観光という矜持。いつでも来られると思うとなかなか足が向かなかったり、写真や映像を見て憧れを募らせる行為だけで終わってしまうことばかりだけど、やはり自分の目で見るべきで、来てよかったと心から思いながら、赤く灯ったハトヤの文字を見ながら眠った。

光合成

f:id:Vanity73:20230226170746j:imageケーキ屋さんには怒られてしまいそうだけど、時間の経ったシュークリームが好きだ。買ってきてすぐに半分食べて、残りは翌朝にとっておく。時間が経ってぽってりと固まったカスタードクリームと、すこし乾いたシュー、クリームがしみてじゅわっとした断面。できたてのサクサクしたシューも、フレッシュなカスタードももちろん美味しいのだけど、すこし野暮ったくなった味わいも愛おしい。

f:id:Vanity73:20230226170750j:imageそれでいまシュークリームにはまっていて、近所のケーキ屋さんで毎週のように買い求めている。生ケーキよりもお手頃で、シューの形や焼き加減にお店の個性がはっきりと出ているのも面白い。この街に越してきたときから感じてはいたが、行動範囲内に美味しいケーキ屋さんがありすぎる。いままで気になりつつ、カロリー摂取を気にして行っていなかったけれど、積極的に行くようになった。

f:id:Vanity73:20230226170753j:imageいちどにぜんぶ食べてしまうと罪悪感に苛まれるのもあって、半分残して次の日に持ち越す悪癖があるのだけど、シュークリーム以外のケーキも実は翌日でも美味しいと感じている。ショートケーキの少し固くなった生クリーム、口に入れた瞬間に感じる分離した脂肪分、白い生クリームに滲み出たいちごの赤い果汁、乾いたスポンジ、湿ったタルト生地。それを朝に本を読みながら少しずつつつく。お行儀が良くないので人には見せられないが、ひとりの楽しみ。

 

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私の体力や気力は太陽光で賄われているのではないかと思うほど、天候に調子が左右される。曇りの日が続くと目に見えて動きが鈍くなるので、私にはソーラーパネルが搭載されているのだと思うようにしている。エネルギーがなければ稼働しないのだから仕方ない。

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気温が低くとても寒い日、職場でブラインドを開けるために窓辺へ行くと、陽射しが当たってとても暖かかった。そのときふと、「ひだまり」ってとてもいい言葉だなと思った。私の中では幼稚園や老人ホームなどの名前に使われる印象が強く、ほのぼのとした色合いとフォントの野暮ったいイメージがつきまとうことばだったが、陽射しが溜まって暖を生む、なんと素晴らしい言葉と現象だろう。自分が死ぬときは、天気のいい日がいいなと思った。いつどこで死ぬのかわからないけれど、ぽかぽかとした陽気に包まれて死ねたなら、きっと思い残すこともないだろう。

 

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去年の夏頃からずっとパーマをかけていて、森山未來みたいに無造作に結ぶスタイルに憧れて伸ばしていたけれど、耳の下まできたところで飽きて、耳の上でばっつり切り揃えた。顔の周りがすっきりして顎や首のラインが目立つようになると、自分のことを「細い」とすこし思えて、依然として減らない体重も多少は許容できる。美容室に行くたびに髪型が変わるのは、自分の見た目に飽きてしまうからで、こういうところで生活に新鮮さを求めている。男性になりたいと思ったことはないけれど、松田龍平のようなルックスに憧れていて、髭を生やしてみたい。この髪型と眼鏡なら、髭があったほうが決まるなあと、アクセサリーのような感覚で欲しいと思う。

 

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こういうどうでもいい、誰かに話すまでもないことばかりが頭をぐるぐる回っていて、こういうときにこうして書けたり、誰かのひとりごとを読めるインターネットがあってよかったと思う。こういうことを話せる相手が欲しいと思っていたこともあったけれど、特定の誰かに話を聞いて欲しい、自分のことを知って欲しいという欲求は、自分にとって毒であることを悟り、いまはできるだけ長く、ひとりごとを話していたい。