ニュースクラップタウン

私事で恐縮です。

冬の入射角

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黄色い蝋梅の花や、白やピンクの桃の花がちらほらと咲き始めているのを見て、その色や形に「桜の季節が近づいている」と思ったところで、自分が梅を桜の前座のように思っていることに気が付く。それは梅に対して失礼なので、いまからは存分に梅の花を愛でようと心に決めた。冬至を過ぎて少しずつ陽が長くなり、晴れやかな立春の日に、寒い冬ももう折り返し地点に来ている。

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職場のお手洗いにはいつも季節の花が飾られていて、はじめて間近に水仙の花を見る。和紙のように繊細な花弁とすっと鼻に抜ける香りの美しさを知ってから、道端の水仙に目が行くようになった。群生していると、針のように伸びた葉はニラのようでもある。蝋梅や菜の花の黄色や、椿の濃いピンク色が冬枯れた木々の隙間から覗くようになり、着実に季節が進んでいることを感じる。

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お正月に実家で思う存分に食事を楽しんだ代償として、体重の増加よりもショックだったのはしばらく胃の痛みが続いたことだった。空腹でも少し食べ物を入れてもキリキリと痛く、食い意地の張っている私もさすがに2週間ほど食欲がわかなかった。ひたすらくたくたに煮た白菜のスープで過ごしていると体重も増えた分はもとに戻ったけれど、以前のように食べ物を消化できる内臓ではないことを悟った。

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1月は免許と賃貸の更新、車検と身の周りの手続きが重なり、忙しないけれどあっという間とは感じず、間延びした長さを感じた。年々寒さに弱くなり、断熱性ゼロの家では身体が強張りきびきびと動けないのもその一因かもしれない。この寒さも2度目になり、さらに2年間この家で暮らすことも決めた。上下左右に部屋の隣接しない気楽さを経験すると、もう集合住宅という選択肢は限りなくゼロに近い。

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実家を出てひとりで暮らしはじめてからじき2年になる。ひとりが当たり前になると、もうこれ以外の生活は考えられないと今は思っている。それはまだ私が健康で、仕事と稼ぎがあり、大きな悩みもなくいられるからで、この先、健康や仕事の面でも何が起こるかわからないけれど、出来る限りこの暮らしを続けたい。自分の家を持つことはあまり考えていなかったけれど、退職後に賃貸で家賃を払い続ける厳しさを考えると、ローンを支払える見込みがあるうちに買ってしまった方がいいかと、ぼんやり考えはじめている。

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ここからは土曜日の夕方にやっている「人生の楽園」みたいな夢の話だけれど、ハーブや野菜を栽培できるお庭のある一軒家を買って、少しずつ手を入れながら、退職後に喫茶や古本、古物のお店をやりたい。しかし、いまの職場の通勤圏内にもそんな物件があるだろうか、本当に実現させるなら30代半ばにはローンを組み始めたほうが、と考えている自分の呑気さに呆れながらも、定職に就けて、いまの暮らしを手に入れられてよかったねと思う。

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そのためにはもう少し貯金を頑張らなくちゃと思いつつ、元気に働けるいまのうちに、遊べるうちに遊んでおいた方が後悔がないような気もして、軽率に欲しいものを買ったり、食べたいものを食べたり、行きたいところへ行くようにしている。

楽しい生活

さ・え・らジャポン

毎年、12月24日と1月1日にはPIZZICATO FIVE『さ・え・らジャポン』を聴く。さらに冬が深まると、雪の積もる街並みのジャケットが印象的なPIZZICATO ONE『わたくしの二十世紀』をリピートしていて、私の中で年の暮れと冬は小西康陽の季節だ。そんなこともあって、評判を耳にしていたライブ『小西康陽小西康陽を歌う』のアーカイブ配信を視聴した。アンコールの「マジック・カーペット・ライド」は噂にたがわぬものだった。「アイドルばかり聴かないで」のアレンジもよかったな。

f:id:Vanity73:20230105100258j:image今年のクリスマスは24日が出勤で、前日の23日に2022年最後の緊張する仕事を無事に終えたので、近所のケーキ屋さんでいちごのショートケーキとプディングケーキを買ってささやかに過ごした。12月は、横須賀のLa griveのものではじめてシュトーレンと共に過ごしたのだけど、これはとてもいいものですね。

f:id:Vanity73:20230105072506j:image12月28日、冬休みに突入。仕事納め、仕事始めとはいっても年度で進行する仕事は3月に向かって忙しさが加速していく時期で、すっきりと片付くものは無いよな、とかぼんやり考えながら、私も一端の社会人になったような気になっている。とはいえ、1週間の休みを満喫すべく、朝の5時に家を出発し、まだ暗い東名高速へ。途中、小腹がすいてパーキングのデイリーでランチパックを買ったら付いてきたおてふきが可愛かった。

f:id:Vanity73:20230105100958j:image途中、2回ほど分岐を間違え予定の倍の時間をかけて、多治見のモザイクタイルミュージアムに到着。夏に京都から松本への途中休憩で立ち寄ろうとしたときにもひどい渋滞で諦めたので、いよいよ辿り着けないのではと思っていたが、真っ青な空にそびえる藤森照信の建築は現実味がなく夢をみているようだった。

f:id:Vanity73:20230105100434j:image京都へ移動し、丸福樓にチェックイン。古い調度品やタイルとリノベーションのバランスが完璧だった。お部屋やラウンジのドリンク、お菓子もオールインクルーシブで充実していて、つい食べ過ぎる。

f:id:Vanity73:20230105100452j:image夕食までの時間、レンタサイクルで京都の町を散策。旅先で自転車というのは、なんとなく地元の人間のフリをしているような軽やかさがあって楽しかった。恵文社一乗寺店や誠光社をめぐり、文化的な土壌の豊かさを実感する。

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f:id:Vanity73:20230105072408j:image宿に戻り、旅のいちばんの目的であるcartaで夕食。夏に尾道のLOGの食事に感動するあまり、同じく細川亜衣さんが監修しているここを予約したのだ。知っている食べ物のはずなのに、素材と調味料の組み合わせや、生のものと加熱の組み合わせが絶妙で、驚きと美味しさで忙しい。大満足で部屋に戻り、『バナナサンド』(4人で旅をするシリーズが大好き)と『ゴールデンラヴィット』を眺めながら眠った。f:id:Vanity73:20230105072411j:image
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f:id:Vanity73:20230105072420j:image12月29日、もちろん朝食も。生姜餡の茶わん蒸しや、ごぼうとごまの風味高いお味噌汁、ゆずの香りが効いた焼き鮭、すべてが美しい。

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f:id:Vanity73:20230105100545j:imageまたレンタサイクルで散策に出かける。午前中はさすがに指先が凍るように冷たい。しかし、自分の寺社仏閣への興味のなさには呆れてしまう。チェックアウト後にはラウンジで昼食のパンケーキとマチェドニアサラダ。チーズの塩気が効いたパンケーキに、LOGの朝食を思い出した。

f:id:Vanity73:20230105100717j:image京都をたち、静岡の浜名湖舘山寺へ。笑ってしまうくらい風が強いが、湖面に射す西日が美しい。宿泊したサゴーロイヤルホテルや、周りの宿もほどよく全盛期を過ぎた観光地の香りに満ちていて、丸福樓のようなブティックホテルの後だと、強烈に旅情をかきたてられる。ナイトクラブ・アカプルコのネオンが見られただけで大満足。

f:id:Vanity73:20230105100731j:image遊覧船の乗船券を貰ったので、ホテルからすぐの待合所へ行くと、古いラジカセから山下達郎のライブ版CDが流れていて最高だった。

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f:id:Vanity73:20230105100852j:image20分ほど車を走らせて、浜名湖をのぞむカフェテラス・サンマリノへ。夕暮れ、閑散とした店内でホットミルクとプリンアラモード。こういう時間が、いちばん遠くへ来た感じがする。

f:id:Vanity73:20230105100932j:image12月30日、朝の5時、暗いロビーでチェックアウトをして、高速道路に乗り帰路へ。まだコンビニしか開いていないパーキングでヨーグルトとパンを買って食べる。日常でも旅先でも、のんびりということができなくて、常に何かをしていないと落ち着かず、目が覚めたそばから移動をしてしまう。まだ暗く車の少ない道を走っているうちに、徐々に明けていく空の色や雲を見ていると、睡眠と覚醒が小さな死と生であるという実感にふと思い至り、ここ最近の自分のスピリチュアル加減が心配になる。

f:id:Vanity73:20230105101153j:image自宅のあるインターを通過し、首都高を抜けていくうちに埼玉の実家に到着。母と回転寿司を食べてスーパーへ買い物に行くうちにさっきまでのスピリチュアルも今年こそは食べ過ぎないという決意もなくなって、夕飯に煮込みハンバーグをリクエストしてお腹いっぱい食べた。

f:id:Vanity73:20230105101228j:image12月31日、つくばの喫茶店とむとむでモーニングを食べて、映画館で三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』を観た。なわとびやミットを打つ音が音楽のようで、聴覚から得る情報の多さを感じさせられる。こんなに音で満たされているのに静かで、研ぎ澄まされた映画だった。つくばから我孫子方面へ行き、NORTHLAKE CAFE&BOOKSでレコードと古本を買って帰宅。大晦日という浮ついた気持ちを回避したくて、映画、レコード、古本と日頃の趣味に気持ちを向けてみたけれど、やはりどこかふわふわしてしまう。夜は家族で鍋を囲んで、日を跨ぐ前に眠った。

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1月1日から3日間は、家族でドライブして過ごした。テレビ番組も以前ほどは見なくなり、『検索ちゃんネタ祭り』『クイズ正解は一年後』『ゴッドタン 芸人マジ歌選手権』がいつも通り面白いことが何より嬉しい。1ヶ月に1度のペースで帰っているので離れているという感覚も薄いが、実家で過ごすと、母のご飯を食べられるよろこびや取り留めもない雑談ができることが嬉しい反面で、自分のペースが乱れることに少しのストレスを感じてもいる。自宅に帰ると当たり前だが静かで、家のすべてのものが自分に快適なように整えられていて心地がいい反面、ふと家族との会話や猫のことを思い出していて、そこにないものを求めるどうしようもない性を感じる。

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仕事と自宅の往復の中ではいつもどこかへ行きたいと思いながら旅行の計画を立て、旅行中にはどこかで家に帰りたいと感じながら車を運転している。自宅にいるときは家族に会いたいと思いながら、実家では自分のペースで食事や睡眠を摂りたいと思う。とにかくいまは、1週間体重計に乗らず、好き勝手に食べて2kg増えた体重をどうにかしなければいけない。

メモランダム

f:id:Vanity73:20221016173441j:imageNetflixに追加されていて、『花束みたいな恋をした』を観た。坂元裕二作品が好きだというのに、公開時がコロナ禍と重なり劇場に足を運ぶタイミングを逃し、ふんわりと聞こえてくる評判にもさして心惹かれず、なんとなく観ないままになっていたので、ついに、といったところ。思っていたよりもずっと良くて、坂元裕二の書く、どこにも帰結しない会話がとても好きだと再確認した。先日まで放送していたドラマ『初恋の悪魔』は、見方や面白がり方を掴めないまま終わってしまったので、こうしたシンプルな作品に触れられたのも嬉しい。クライマックスに登場する、清原果耶と細田佳央太のキャスティングがニクい。特に細田佳央太は『町田くんの世界』『子供はわかってあげない』という最高の青春映画の主演で、私にとってまさにいまの青春そのものみたいな男の子なので、とても眩しい。それなのに下の名前の読み方を永遠に覚えられる気がしない。

f:id:Vanity73:20221016173536j:image固有名詞の乱れうちにもまんまとうずうずさせられてしまったが、一番印象的なのはTBSラジオ菊地成孔の粋な夜電波』。というのも、坂元裕二が一時Instagramのストーリーにイラストを投稿していて、その中に菊地成孔の入れ墨を中心にしたスケッチと、

粋な夜電波終わって、もう一年経とうとしてるじゃないですか。気がつけばもう、なんてこと全然なくて、宙ぶらりんのままの一年ですよね。ずっと待ってるんですけどね。

という文を添えた投稿があり、それを見た当時は坂元さんも聞いてたんだなあなんて嬉しく思っていたんだけど、それは執筆中にイラストレーターを目指す麦と同じようにイラストを描いていたということを後から知り、それが完全な坂元さん自身の趣味ではないことをどこか寂しく思ったのだった。

余談だけれど、番組の終了、事実上の打ち切りが決まったときに菊地さんがBureau KikuchiのTwitterアカウントからポストした文章が好きでスクショもしてあって、折に触れて思い出す。思い出しついでに書いておこう。

自由に生きましょう。我々には、その権利がある。楽しんで生きましょう。我々には、その自由がある。あなたを縛ってるのは上の方の偉いさんじゃない、あなた自身なんです。その縛りをほどくために、僕は音楽に忠誠を誓ったんです。だからあと9回、よろしくお願いします。人生は祭りなんですよ。艱難辛苦を飲み込んで、絶望とともに笑って楽しむしかないのよ。それが最強の状態なのよ。そのことを伝えるために8年も赤坂通ったんだからさあ。首切られることですら、それを伝える一環になるのだから(笑)。

(2018年10月29日)

それから、冒頭の台詞に登場する穂村弘のCINRAのインタビューが面白く、この映画にも通ずるようなことを話していた。

www.cinra.net

本当は、生きのびるために優位で、かつ生の実感も得られる相手と一緒になるのが理想のはずだけど、みんなそれを無意識のうちに「どちらか」と分けて考えてしまう。これは仕事に関しても同じですよね。「やりたいこと」と「(食うための)仕事」をつい分けて考えてしまう。

f:id:Vanity73:20221016173626j:image私には好きな映画や音楽、本の話をする「同じ趣味」の友人というものがいなくて、感想は頭のなかでぐるぐる考えるか、たまにこうしてブログに書いたりするくらいで、映画の絹と麦のようなコミュニケーションを見ると少し羨ましくもあり、まだまだ私も青いと思ってしまうのだけど、職場に趣味の領域が近い人がいて、その人と雑談できると嬉しかったりする。その人が和田誠展に行ったという話から『怪盗ルビィ』が好きという話をしたり、武田百合子が好きという話をしたり、少しずつ共通項が見つかる過程が楽しく、人付き合いに消極的なのでこうして話ができる人と出会えるというのは何か特別な出来事のように感じる。

f:id:Vanity73:20221016173654j:image仕事の方は、2年目になるとまた少し様相が変わり、新しく覚えることもあれば、自分が仕切る(といっても大した規模ではなく)場面もちらほらと増え、やることも多くなってきたので「忙しい」と思うことが増えた。それでも毎日ぴったり定時で帰っているので、管理職の人たちと比べれば気楽な身だ。自分のキャパシティの狭さに辟易してしまい、自棄食いが増えている。体重はやはり昨年の37kg台には戻らず、この身で仕事を乗り切るには体重を乗せる必要があるのだ、と訳のわからない言い訳とともに、いままで忌避していた白米やパンも食べるようになった。本来好きなものを忌避する、というのはストレスである反面、やはり食べながら翌朝に乗る体重計のことを考えてもいて、これも一種の摂食障害に近いものなのだろうかと思ったりする。本来、楽しいはずの食事が、体重やカロリー、栄養素という数字に置き換わる貧しさ。わかっているのに逃れられない。この話も一体何度目だろう。

f:id:Vanity73:20221016173721j:imageいつも読んでいるブログに、牛丼やラーメン、中華料理屋でご飯を食べた、あるいはスーパーやコンビニでお惣菜ないしはお弁当とビールを買って帰った、のような何気ない記述があると、その行為や風景に異様な憧れを抱くことがある。カロリーを気にせず食べる、夕飯を外食や出来合いのもので済ませる、という行為になぜか抵抗があり、自分ではない人の生活に憧れる。

 

水平線

水平線

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滝口悠生『水平線』を読んだ。いつも通りのフラットな文章ながら、風景描写のひとつひとつに並々ならぬ気概を感じて、一章を読み終えるごとにひと息つきながら読んだ。今年の夏に、母と弟と伊東へ旅行に行き、宿泊した川奈ホテルの展望台から遠くに見える島を眺めた記憶があり、作中に登場する硫黄島や伊豆とは異なるのだけれど、シチュエーションとして自分の記憶と重なるものとして思い描いた。

f:id:Vanity73:20221016173741j:image横須賀美術館で開催中の「猪熊弦一郎展」で『顔80』がキービジュアルに使用されているのを見て『死んでいない者』を読み返したくなり、単行本を携えて横須賀へ行った。いのくまさんの、抽象画と包装紙やテキスタイルでは描かれているモチーフは似ているのに見え方が違って面白かった。そしてやはりかわいい猫たち。久しぶりの『死んでいない者』、いくつかの作品を経て読み返すとすでにエッセンスが凝縮されていて、いつまでも読んでいたい心地よさがあった。そういえば、『花束みたいな恋をした』にも滝口さんの『茄子の輝き』が出てきますね。

f:id:Vanity73:20221016173845j:image来年の手帳を選び始めると、そろそろ1年を畳む季節がきたなと思う。仕事用と日記用の2冊を毎年買っていて、だいたいいつもカバーで選ぶ。仕事用はMARK'Sのunpisさんのもの、日記用はnice thingsのトワイライトにした。七分袖と長袖を行き来する10月を過ぎると、イルミネーションがはじまって、街の空気が一気に年末へ向かうことを想像するだけでわくわくする。もうたくさん公開されているホテルやパティスリーのクリスマスケーキの写真を見るのも大好き、ファミリーレストランのおせち予約ののぼりも大好き。子どもの頃は、クリスマスになると届くトイザらスのおもちゃの冊子をずっと眺めていた。あれ、ポストに投函されていた記憶があるのだけど、大きくなると届かなくなって、どういう基準で届いていたのだろう。記憶違いで、お店から貰って帰っていたのか。いまもあるのだろうか。

わたくしごと

f:id:Vanity73:20220917072905j:image陽の傾きや高さが関係しているのか、気象に詳しくないので原理はわからないが、この季節の、この時間にしか射さない光というものが確かにある。朝の7時に高速道路の入り組んだジャンクションの隙間から高架に当たる四角い光、15時過ぎに職場のデスクにかかるブラインドの影、どれも数日前には無かったはずのもので、こういうときに季節の移り変わりを感じる。特に夏から秋にかけては、白飛びするほどの陽射しから、徐々に穏やかな暖色へ変化するように感じられる。これはあくまでも自分の印象で、原理がわかれば見えている現象の解像度が上がるのだろうかと思いながら、特に調べることはせずに毎日が過ぎていく。

f:id:Vanity73:20220917074547j:image9月に入る少し前から、日の出の時間は4時半から5時にスライドして、18時にはもうすっかり暗くなっている。朝晩は風が澄んで、夏の寝具では明け方に肌寒さを感じる。まだ人の気配のない外へごみを出しに出て、少しずつ空が濃い灰色から紺色、水色あるいは灰色、ときたま赤色に変わっていくのを見ているときが、すべてのことから解放されたようで、生きている心地とはこのことかと思う。この朝の数分間が1日のすべてで、あとの仕事や生活はおまけだと、半ば本気で思えるくらい、私は呑気。誰のことも、何のことも思い出さず、ただそこにいる、というのがいちばんの贅沢であり、せめてもの反抗のように。

f:id:Vanity73:20220917074524j:image職場の近くの無人販売所に無花果が並び始めて、スーパーで買うと4個で500円くらいするものが、形は歪でも3個で100円なので沢山買えて、この2週間で計20個は食べている。無花果はジャムやドライフルーツも美味しいけれど、やはり生を食べると、あの掴みどころのない瑞々しさや舌触りが特別だと思う。時期も短いのでここぞとばかりに食べる。数年前は高級品として現れたシャインマスカットも、今では一房500円でスーパーに並ぶこともあり身近になった。こう書いていて、自分の中でスーパーで手を出せる果物の基準が500円であることに気が付いた。いま冷蔵庫には無花果、シャインマスカット、巨峰、デラウェア、りんご、梨がある。数日前は桃もあったが、もうこちらは時期を過ぎた。朝食は果物中心なので必需品であり、贅沢品でもあるので、色々な種類の果物でお腹をいっぱいにできるのは幸せな季節だ。年齢を重ねて食わず嫌いも減ってきたが、秋の代表ともいえる柿とはまだ和解できていない。あと5年くらいすると、わかるような気がしている。

遁走

f:id:Vanity73:20220821114319j:image7月中旬、半休でお昼に退勤し、葉山まで車を走らせ、神奈川県立近代美術館でアレック・ソス「Gathered Leaves」を見た。車で旅をしながら撮影する様子を追ったドキュメンタリー映画『Somewhere to Disappear』は、恣意的な音楽にやや違和感を感じたものの、アレック・ソスの語る「車に運ばれる」という感覚や「逃避願望」、アウトサイダーたちの様子はかなり見ごたえがあった。いちばん最後に登場した砂漠で暮らす男性の、自然と共にあるというスピリチュアリティは圧倒的だった。被写体の人物や風景そのままでありつつ、写真を撮ることで生じる作為に自覚的で、奥行きを感じる作品ばかりだった。

f:id:Vanity73:20220821114416j:image平日でも人が多い印象のある逗子の海岸や鎌倉の街は、小雨のせいかいつもより人が少なく快適だった。鎌倉駅の目の前にあるホテルニューカマクラへ宿泊する。駐車場内にある小屋でチェックインをすると、掃除のおばちゃん、といった風情の従業員さんが部屋を案内してくれる。エントランス入ってすぐのシャンデリアや赤い絨毯の階段、清潔に保たれつつも経年を感じさせる木の風合い、すべてが完璧。小雨の降る鎌倉の街へ繰り出し、豊島屋で鳩サブレと鳩サブレを模したミラーを買い、ミルクホールで夕食をとる王道コース。19時過ぎに入店したモアは貸し切り状態で、窓際の席で小町通りを眺めながらもものパフェを食べた。

f:id:Vanity73:20220821114459j:image部屋に戻り、テレビもWi-Fiもない部屋でぼんやりと駅を眺めてすごす。旅ではいつものことなのだが、ホテルで上手に眠れたことがなく、この日も一瞬の眠りと半覚醒を繰り返し、3時過ぎに起きだして昨日買った小川軒のレーズンウィッチやRegalez-Vousのマカロンケーキを貪り、徐々に雨が強くなるなか、目覚める前の街をふらふらと散歩した。チェックイン時にお金を払っているので、チェックアウト時は玄関にぽんと鍵を置いて出ていく。

f:id:Vanity73:20220821114526j:image横須賀の久里浜港から、車で東京湾フェリーに乗り込み、千葉県の金谷港まで約40分の船旅。雨でデッキには出れず、見晴らしもよくないが、めったにのらないフェリーににわかにテンションがあがる。金谷港からすぐ近くの鋸山ロープウェイへ。フェリー、ロープウェイと晴れていればさぞ楽しかろうという観光コースだが、どんよりとした曇り雨、朝早くで人も少なく、昨晩の寝不足もたたってぼんやりとしたまま煙った景色を眺める。ロープウェイ内で淡々と観光案内を読み上げる女性スタッフと私ふたりきりの空の旅。旅はいつも、計画をしているときがピークで、実際にその場にいるときはあまり楽しくないので、私は旅に向いていないと思う。

f:id:Vanity73:20220821114542j:image山道を横断して鴨川へ。にわかにリゾート感のある街道にあらわれる、海の見えるレストラン(というより食堂という言葉が似あう風情だが)真珠の庭で昼食をとる。コロナ禍になってからというもの、マスクや消毒などの対策だけでなく、飲食店の清潔感にもかなりナイーブになって、昔なら楽しめていた古さが年々厳しくなっていく。しかし、マグロのステーキは美味しかった。途中、立ち寄ったアンティークショップのいすみブランで、姿見を購入する。ずっと欲しいな、とは思っていたのだが、一目見て気に入るものがあり、ほぼ衝動的に買ってしまった。軽自動車の助手席を倒してもらい、姿見を携えてのドライブ。私は何をしているんだろう、と思いながら、次の目的地であるつくばへ車を走らせた。寝不足と空腹で頭が働かず、ひたすら16号線を走る。本当に車で入っていっていいのだろうか?というような山道の中腹にある、古民家をリノベーションした民宿の旧小林邸へ。意識していたわけではないものの、前日のニューカマクラと同様に、風呂・トイレは共用、テレビのない宿で、強制的に静かな時間を過ごす。部屋の窓からはつくばの街が見下ろせてとても良い場所だった。

f:id:Vanity73:20220821114616j:imageさすがに疲れていたのでぐっすりと眠る。標高が高く、街の灯りが見えていたと思えばあっという間に雲で覆われていたりと、現実感のない景色が忘れがたい。宿からすぐのガマランドへ立ち寄る。レストハウスのお土産屋さんは開いていたが、ガマランドの方は開いておらず、朝早いからなのか、本当に閉業してしまったのか。2年ほど前に訪れたときは1階のお土産屋さんは開いていて、おばあさん2人店番をしていた。店内ではブラウン管の分厚いテレビで地デジ放送が流れていて、異空間だった。

f:id:Vanity73:20220821114641j:image下山をしてつくばの町中を走り、本来であればここから埼玉の実家に帰省する予定だったのが、弟が無症状の陽性になり隔離生活中とのことで取りやめとなる。ただ、自宅までの通り道ではあるので、鳩サブレとがままんじゅうをお土産に、玄関先で陰性だった母と少し立ち話をした。最後に帰ったのが5月の連休だったのでやや久しぶりで、この2日間の孤独なドライブから家族の顔を見て話したので安堵感があった。首都高に乗って自宅に帰り、自分の背丈よりやや大きい姿見を車から引きずり出してなんとか部屋に設置する。とても可愛くて、買ってよかったと思った。

f:id:Vanity73:20220821114714j:image以前は旅に対する興味が薄かったのだが、車を運転するようになってから、旅への欲求が芽生えるようになった。生活の中心といっても差支えのなかった演劇やライブに気軽に行けなくなり、公共交通機関にも抵抗があると、誰にも接触せずに移動でき、好きな音楽やラジオを流しながら様々な景色を見ることのできる車が、シェルターのように感じられる。大きな不足や不満のない生活のなかで、常に心のどこかにここではないところへ行きたいという逃避願望があり、それが数か月に一回こういった形で爆発する。

f:id:Vanity73:20220821114739j:image空腹や疲労という自分の状態を無視してしまう傾向があり、旅をしている間は特にそれが顕著で精神状態があまりよろしくなく、私は旅に向いていないと思う。ここへ行こう、と計画しているときと、あとから写真などを見返してこんなことがあった、と思い返している状態がいちばん楽しく、実際の時間はおまけのように感じる。旅に限らず、食に関しても、食べる前のあれが食べたいという欲求と、美味しかったという記憶が本質で、実際に食べている間の幸福感はそこまで大きくない。大げさだが、人生のすべては予感と追憶なのではないかとすら思う。

生きるからだ

f:id:Vanity73:20220723092310j:image2019年4月、ホットヨガに入会し、食事制限を始めた。当時、身長150㎝・体重59kg。BMI値は26で、健康診断でも肥満と診断される体型だ。物心ついたころからいわゆるぽっちゃり体型で、運動の習慣はなく、家の冷蔵庫には常にお菓子があり、時間も気にせず食べたいときに食べる生活を続けてきた。身長と体格のせいかそこまで身体が大きく見えないのをいいことに、痩せたいな~と漠然と思いながらも、喫緊の必要性にも迫られずにいた。

f:id:Vanity73:20220723092348j:image今思うと、当時仕事も恋人との関係も行き詰り、鬱々としていた私には打ち込める何かが必要だった。それまで3食食べていた白米を止め、朝はヨーグルトとフルーツ、夜はサラダを中心とした食生活に。休日には必ず朝から1時間のホットヨガを2クラス受講。元来がひどい生活だったので、効果はすぐに出て、1か月で約2kgのペースで、5月には56kg、6月には54kg、7月には遂に50kgをきりはじめ、8月には48kgと順調に減量に成功した。

f:id:Vanity73:20220723092429j:image体調や周期によって1-2kgの変動があり、うまく時期と運動量が重なれば1日で1kg前後減ることもわかり、ホットヨガで汗を流せば減るという安心感もあり、外食で気兼ねなくスイーツも食べた。生理前には無性に甘いものが欲しくなり、お腹も減っていないのにひたすらお菓子を食べるのが毎月恒例の行事となっていたが、生理が終わると浮腫みが取れてストンと体重がおちることもわかっていたのでそこまで気にしていなかった。ライブや観劇で外出する日には、昼か夕方に行ってみたいお店で食べたいものを食べて、それ以外は食べずに都内を歩き回り、体重が落ちる。食事量を減らして落とした体重が戻りやすいと思いきや、いちど減ると案外キープできて、この不健康なプチ断食が成功体験として記憶されてしまっている。

f:id:Vanity73:20220723092456j:image9月以降、減量のペースはやや落ちたものの40kg台後半をキープし、お正月の暴飲暴食を経て2020年1月には44kgに。ここからコロナ禍に突入し、ホットヨガに通えなくなり、運動は朝のジョギング、部屋で簡単なヨガとストレッチに移行した。このあたりで体組成計を導入して体脂肪率の測定もはじめ、45kg24%がこの時期の平均値だ。

f:id:Vanity73:20220723092553j:imageダイエットをはじめた1年前と比較して約15kgの減量に成功した。どんどん減っていく体重や、すっきりとしていく顎の肉、よくクリームパンのようだと言われた丸い手にはうっすらと血管が浮かび、足の甲の浮腫みも取れて履いていた靴もゆるくなった。目に見えて効果が実感できるダイエットは私にとてつもない充実感と達成感をもたらした。朝いちでホットヨガに通うようになってから、早起きが習慣になり、生活にも張りが出た。この時点では、「15kg痩せた」という成功体験が大きな支えになっていた。

f:id:Vanity73:20220723092629j:image2020年4月、ダイエット2年目は、45kg台と40kg台前半をうろうろとする、いわゆる停滞期に入る。BMI値は20で平均的な体型、これまで蓄積された皮下脂肪はしぶとく、お腹周りがぽよんとしているのは気になりながらも、この時点では「痩せた」という成功体験のほうが大きかった。いちばんの娯楽だった観劇やライブがなくなり、家にいることを余儀なくされると、人間の楽しみは食に向かうというのは、世間を見ていても同じようだった。食事制限をしているとたんぱく質、脂質、糖質について食材やレシピを調べ、どのくらいの食材、調味料を使っているかが可視化できる自炊の安心感が大きくなる。それまでほとんどしたことのなかった料理に目覚め、サラダチキンやスープを拵えては自分でお弁当を作るようになった。

f:id:Vanity73:20220723092709j:image食べられるものを自分で制限すると、食欲が先鋭化される。それまで漫然と食べていた外食でも摂取カロリーから食べたいものを厳選し、パフェを食べるときは食事を抜くのが今も通例だ。甘いものも、基本的に食べてはいけないもの、と思い込むと、かえって欲しくてたまらなくなり、こんなに好きだっただろうか?と疑問に思うほど、執着に近い感覚が生まれたのはダイエット開始以降だ。

f:id:Vanity73:20220723092742j:image2021年4月、転職に伴い実家を出てひとり暮らしをはじめてから、42kgが最低値だったところから徐々に減り始め、6月には40kgをきり39kgをマークした。2年間で約20kgの減量。買ってくるものや作るものもすべて自分で管理する生活がはじまってから、お菓子は家にストックせず、片道40分を電動自転車で通勤していたら、自然に減っていったという感じ。この頃から「我慢している」「節制している」という感覚はあったが、新しい職場と生活に夢中だったのが正直なところだ。その反動で実家に帰れば母の手料理やお菓子を好きなだけ食べて40kg台に戻り、自宅に帰ってからは焦って食事を減らし、そうすると38kgまで落として、そこからキープした。朝に10分ヨガ、食後に10分腹筋・下腹のトレーニングを動画を見ながら行うのが習慣化して、ずっとぷよぷよしていたお腹周りも心なしかすっきりとしてきた気がするが、今もすぐに浮腫んでしまう。

f:id:Vanity73:20220723092804j:image9月に37kg台後半まで減ってから、12月までその37kg台をキープしていた。体脂肪率は平均18%、たまにパフェやアイスを食べても不思議と大きく増えることはなく、この頃がいちばん体型も気持ちも安定していた気がする。ダイエットもはじめて3年が経つと、太っていた状態から「痩せた」という成功体験も薄れ、40kg周辺の体型が「普通」の状態になってしまう。

f:id:Vanity73:20220723092846j:image2022年のお正月に実家で暴飲暴食から41kg22%まで増量、その後休日のたびに欠食などを続けて38kg台まで戻したものの、自分に制限を課している、というフラストレーションや、自分では解決できない心配事が重なり、無性に甘いものを無駄に食べたくなる衝動に駆られることが多くなった。業務スーパーで500gパックのチーズケーキやティラミス、生クリーム山盛りのパンケーキやクレープを貪り食べることが続き、40kgを超えることはないものの、37kgには戻らない日々を送っている。減らしたい体脂肪率も20%台をうろうろしており、甘いものを愛する人間が脂質を減らす難しさを実感する。それはホルモンバランスによる暴走だとわかりつつ、なぜ自分の身体と感情がこんなにもコントロールできないのか。

f:id:Vanity73:20220723092917j:image「必要以上に食べてはいけない」「運動しなければならない」という制約を自分で自分に課すことに疲れていることを自覚しながら、これを止めたらすぐにでも過去の太った自堕落な自分に戻ってしまうという強迫観念から逃れることができずにいる。浮いた鎖骨を見て「痩せた」と思えても、お腹を見るとまだ「太っている」と思うし、自分のことを完全に「痩せている」とは思えない。制限をすることで、ストレスの発散方法がその禁を破って食べることに向かう悪循環を自覚してもいるが、食べたら食べたで罪悪感に苛まれ、悶々としてしまう。

f:id:Vanity73:20220723092939j:image生活に新鮮さを求める意味でも、5月にジムに入会し、平日の夕方にホットヨガ30分、日曜日の早朝にクロストレーナー30分を習慣化した。運動量を増やしたのできっと体重も減っていくと思いきや、そうとはいかず、今も39.5kg-38.5kgの間をうろうろしている。眠れないと夜な夜なダイエット情報を検索するという悪習慣も身についてしまっているのだが、脂肪を燃やすには炭水化物、糖質が必要という情報を見て、ずっと食べていないご飯を食べたほうがいいのか、欠食を続けて代謝が落ちているので食べる量を増やした方がいいのか、と思いながら、多めに食べて単純に体重が増える体たらくだ。どこかで、自分に食べることを許したい気持ちがあるのだと思う。

f:id:Vanity73:20220723093004j:imageこう書くとまったく食べていないようだし、自分でも「食べていない」と思い込んでいるが、普通に食べてはいるのだ。特に仕事のある日は食べないと使いものにならないので、朝はヨーグルトとフルーツに加えてさつまいもやパンで糖分を補給し、お昼はいつも決まった量のお弁当、夜は野菜中心。最近は仕事で気がかりなことがあると気持ちを落ち着けるために食後のお菓子やアイスを自分に許して気持ちを保っている。たんぱく質が足りていないことは自覚しているので、食べる量ではなく質を見直すべきだろうと思いながら、運動してもどうせ効果がないし、といまいちモチベーションもあがらない。外出をして食事量が少なく、ひたすら運転をして帰った日には単純に食べ物が入っていないのでお腹が薄く、体重もたまに37kg台になるのだけど、翌日から普通に戻ると余裕で1kg増えてしまう。昨年の秋頃は休日も3食しっかり食べていたので代謝が保たれていたのだろうと思って、その頃の生活に戻したいのだけれどなかなかうまくいかない。

f:id:Vanity73:20220723093028j:image150cm39kgでもBMI値は17.5で瘦せ型の部類に入るのだけれど、体脂肪率は21%でアンバランスだと感じる。食事を高たんぱく、低脂質に、有酸素運動と筋トレを続ければ理論上は減っていくとわかってはいるものの、そうはうまくいかない。一時的な減量ではなく、恒常的に代謝を上げる身体を作らなくてはと思いつつ、体重の増減に一喜一憂して、食事、食欲のコントロールができない。

ここへきて、「ダイエット」に疲れて、なぜ自分はこれを続けているのか、と思うことも増えた。好きなときに好きなものを食べて、面倒なら運動も休む、やろうと思えばすぐにでもできることでも、罪悪感に苛まれて、自縄自縛だ。それに何より、今の時点から振り返って「痩せていた」と思える過去の状態に固執してしまうのは、ほかに没頭できるものがないからだともわかっている。

f:id:Vanity73:20220723093102j:image

今日は体重39.3kg、体脂肪率21%、皮下脂肪20.3%、筋肉量29.2kg。

1kgの小麦粉の粉を抱えた重さに、1kgなんてこの程度か、と思う。こんなにずっしりとするのか、とも思う。私しか関心のない私の質量に、私が私を生きるからだに、いつまで執着し続けるのだろう。