ニュースクラップタウン

私事で恐縮です。

灼けつく東雲

f:id:Vanity73:20180425225559j:image4月からシフトが少し変わって、これまで無縁だった通勤ラッシュの電車に乗るようになった。朝は覚悟していたが、夕方もこんなに混んでいるのかと驚いてしまう。みんな意外と定時であがって帰っているんだなあ、と世間知らずに思う。相変わらず片道1時間半かけて通勤しているが、私より前から乗っていて、私よりもずっと先で降りる人たちはどこからどこまで行くんだろう。もっと便利でよい暮らしを、と思っているうちに毎日はどんどん終わっていくんだろうな。どうしてここにいるのか、この先どうなっていくのか、考えても仕方がないと思いつつ、どうしても考えてしまうときはいつも細野晴臣の「恋は桃色」を口ずさむ。

ここがどこなのか どうでもいいことさ

どうやって来たのか 忘れられるかな

たまもの (ちくま文庫)

たまもの (ちくま文庫)

 

先月に冨永昌敬監督の映画『素敵なダイナマイトスキャンダル』を観てから、末井昭が気になって原作やエッセイ『自殺』を読んだ。読めば読むほどにわからなくなる底なし沼のような人だ。映画での柄本佑の恐ろしくなるほど空虚な瞳と乾いた笑い声も素晴らしく、末井さんの正体が見えない感じを見事に体現していた。あわせて現在の妻である写真家・神蔵美子の『たまもの』を読む。坪内祐三末井昭との不思議な関係や自身の創作活動の中での悩みや苦しみがそのまま綴られていて、私のはずっと卑近だけれどもいまの自分の苦しさと通ずるものがあってなんだか心強かった。神蔵さんの正直さと真摯さにとても救われている。末井さんと神蔵さんは聖書を生活の指針にしているとあって、私も聖書を読み始めたところだったので妙な引き合わせを感じる。あまり関係のない事柄が、私の中で巡り合わせのように接続することが多々あって、そっと導かれているのだと思う。信仰というとなんだか仰々しくて身構えてしまうが、このふたりの聖書との距離感も自分と近いような気がして、これでよいのだ、と正解に巡り会えたような気がした。

POLY LIFE MULTI SOUL (初回盤A)

12日は恵比寿リキッドルームceroが主催するキセルとの2マンライブ Contemporary Tokyo Cruise -POLY LIFE-へ。ceroはセットリストの殆どが5月に発売されるアルバムからの新曲で、以前から披露している曲の仕上がり具合と、はじめて聞く曲の得体の知れなさに興奮しきり。とんでもない拍子に美しい詞、聞いたことのない見たことのない景色だ。アンコールの照明が新しいアー写と同じ緑と赤でとても格好良かった。しかし新曲たちを聞けば聞くほど全貌がわからなくなるアルバム、一体どんなことになっているんだ。
13日、シアターコクーンにて『ヘッダ・ガブラー』を観劇。華と実力を備えたキャストを堪能する。死ぬほど退屈なヘッダ・ガブラー、可哀想なヘッダ。手に入るものは要らなくて、気付いたときにはすべて失っている。魔性は最終的に自分を滅ぼしてしまうのだ。枯渇するヘッダ・ガブラーを気高く、抑制の効いた熱量で演じる寺島しのぶがとても良かった。観劇後、ロロの世界展を展開していた奥渋谷のSPBSへ。三浦さんの選書から太宰治の『女生徒』を購入した。ロロの戯曲や講演記録も本になったら読みたい。三浦さんの文章をもっとたくさん紙媒体で読んでみたい。

14日、本多劇場にてナイロン100℃ 『百年の秘密』を観劇。ナイロンは脚本も演出も演技もあまりに水準が高くて当然のように楽しんでいるけれど、このクオリティは稀有で奇跡の賜物であることを折に触れて思う。とても壮大だけれど、ひとつひとつのシーンはとても些細で、その小ささが愛おしい。みのすけさん演じるチャドが好きで、彼にも描かれていない沢山の時間があって、人生があることを想像する。だからこそ最後にチャドが担った役割は、彼にとっての幸福だったんじゃないかと思いたい。彼らの一生を俯瞰しながら想像を巡らせると、自分の知らないところに幸せが存在しているのかもしれないと思う。

f:id:Vanity73:20180425225317j:image週末に予定が詰まっているときに限って風邪をひいた。喉の痛みや鼻水も怠いのだが、週末まで悪化させるわけにはいかないという妙なプレッシャーを自分でかけて疲れてしまった。20日はシアタートラムへ城山羊の会『自己紹介読本』を観に行く。よりにもよって小声で話すお芝居に、咳が止まらなくなったらどうしようとドキドキしていたのだけれどなんとか乗り切った。城山羊の会、観れば観るほどに好きになる。見てはいけないものを覗いてしまった居心地の悪さと、気まずく狂った状況を俯瞰してニヤつく意地の悪さがたまらない。岡部たかしさん、本当に芸達者で魅力的だ。

帰宅後、従姉妹の結婚式のため盛岡へ車で向かう。大好きな夜中のサービスエリアに一度も降りられないほど眠り続けた。市内はどこへ行っても見知ったショッピングモールとファミリーレストランとコンビニが並んでいて、自分の住む街と大差ないのになにかが違って見える。違って見えるのにすべてが同じに見える。次の日は出勤なので新幹線で帰る。少しずつ山が減って、ビルの窓が増えていく。パラレルワールドのようで、車窓ごとにそこで暮らす自分を想像してみる。最近、映画『百万円と苦虫女』みたいに色んな土地を転々とする妄想をよくしていて、最終的には熱海の温泉まんじゅう屋さんかロープウェイで働きながら暮らしたい。

季節外れの陽射しと気温の日曜日は、夏の始まりというよりも晩夏のような雰囲気だった。暑さも盛りをすぎて、冷たい風が吹きはじめたような気候のようで、季節がどんどんスキップしていく。この日は年末ぶりに友人たちと集まってご飯を食べた。中学生の頃からもう10年の付き合いになる。昔からずっと変わらないトーンでくだらない話から仕事や生活のあれこれまで話していると、なにもかも大丈夫な気がしてくる。どうやって仲良くなったのかもう覚えていないけれど、当たり前のように続く関係が尊い

f:id:Vanity73:20180425230330j:image色んなことがぜんぜん上手にできない。昔から、なんとなくの身の丈で失敗しなさそうなところを選んで、できるフリをしてきたけれど、そうしているうちに本当になにもできなくなってしまった。頑張る、とか、努力とか、そういうのもぜんぜん分からない。誰かのために何かをする、というのが昔からできなくて、自分の行動が妨げになってしまうことが怖い。そうすると、なにもせずにいることが私にできる最善、という結論に至る。本当に覚悟のある人は、そういう部分も引き受けてケアしていくのだろうけど、あまりにも難しい。愛とかそんなフリしてるけど、エゴはぜんぜん消せなくて、がんじがらめだ。私の言動でいちいち寂しくなったりなんてしないだろう。わたしには必要だけど、そう言ったところで、差し出されたって要らないものはあるだろう。なんとか自分のメリットをプレゼンしたいけれど、最初からそんなのないからぜんぜんできない。