ニュースクラップタウン

私事で恐縮です。

出さなかった手紙たち

都内に雪が舞った3月の半ばから、瞬く間に桜が散ったいまのいままで、何度も書いては途中で手を止めた文章たちが蓄積している。思考は延々とループして、辿り着いたと思った答えをぐしゃぐしゃに丸めて放り投げて、拾って広げて、もう一度丸めて、を繰り返す。好きな人のことを想えば想うほど、私から離れた方が好きな人のためになるという結論に辿り着く。しかし、そう思うと心臓のあたりがきゅっと締まって苦しくなる。もうすぐ誕生日を迎えるからお手紙を書こうかと思って、言葉を考えて、これはいいかもと思うけれど、どうにも自分に酔っているみたいな気がして、やっぱり渡せない。どうやったら自己陶酔と憐憫をやめられるのだろう。

f:id:Vanity73:20180412225706j:image春の陽射しにまばたきする間に桜が開いて、立ち眩んでいる間に散っていった。本当にあっという間だった。仕事終わりの夜道、生暖かくなりつつある空気の中で、ひんやりとした風に巻き上げられた花びらがきらきらと光ってみえた。うろこのような、子どもの頃にお気に入りだった小さなバッグのスパンコールのような白とピンクのホログラム。万年思春期の私はここ数日間ずっと思い詰めていて、現実と詩情の狭間で情緒がぐちゃぐちゃになっている。ポエジーだけで生きていけたらどんなにいいだろう、なんてことを思いながら本屋をうろうろしていたら、Twitter発のポエムみたいなものをまとめた本が並んでいた。泣き顔の女だとか空だとかのイラストと一緒に、好きで好きで、とかなんとかそんな言葉が並んだ表紙を見た瞬間に、私が未練がましくこねくり回している感情や言葉も結局のところこういうものなのだと思って急に恥ずかしくなってしまった。こういうものに救われる子もいるかもしれないし、頭から否定する気もないけれど、あの小っ恥ずかしさは今の私そのものだ。陶酔的で安っぽくて。これまでも散々に書き散らしてきてなんだけれども、とても人様に渡していいものではない。今だって免罪符みたいにこんな書き方をして、とても卑怯だ。

f:id:Vanity73:20180412230302j:imageポエジーに、リリカルに生きる方法はたぶんひとつある。ひとりで生きることだ。特定の誰かに自分の詩を押し付けないこと、目の前の共有や共感を求めずにいること。身体に絶えず湧き上がる詩を詠むためには、孤独でいることだ。人はみんな孤独とずっと思っていて、今もそうだけれど、なんとか上手に、ひとりとひとりで並ぶことはできないでしょうか。どうやったらできるでしょうか。みなさんはどうやって、人と並んでいるのでしょうか。冷静に事実を鑑みると実は順調というか、そんなに思い悩むこともないような気がしてるけど、どうしてか怖くて怖くて仕方がないのだ。怖くて出せない手紙をあなたに託します。

 

昨年の今頃は誕生日も知らなかったと思うと、こうしてお祝いできることがなんだか不思議な心地です。

あなたは私にとって、突然降り注いだ光です。薄曇りだった私の毎日を照らしてくれた。

私が受け取った沢山の光は、あなたからの、そして神さまからの贈り物なのだと思っています。

あなたの聡く美しいこころは、きっとこの先もたくさんの人を照らし、救います。

あなたの過ごしたこれまでが、あなたのこれからの支えとなりますように。

これから迎える新しき日々が、愛おしき祝福と希望で満たされますように。

1秒でも長く、穏やかな時間を過ごせますように。

おやすみなさい。また明日。